まわしよみ新聞の効果

まわしよみ新聞を思いつき、はじめてみると、実に面白かったのですが、なんでこんなに面白いのか?が当初は全くわかりませんでした。それで「一体、この面白さの正体はなんなのか?つきとめてやろう」ということで「100日連続まわしよみ新聞」というプロジェクトを実施しました。毎日毎日とことんまでやることで、まわしよみ新聞を徹底して味わい、その中から自分が「気づいたこと」「発見していったこと」を言語化していきました。全部で21項目あります。

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①自分の世界を広げる
インターネットは情報検索性に優れていますが、優れすぎているがゆえに、自分の好きな、関心・興味のあるキーワードばかりを検索・収集してしまって、いつのまにか自分の世界観を狭めてしまう・・・という弊害が起こりやすいメディアといえます。好きだからといってお肉や甘いものばかりを食べていると健康を損なうように、自分の好きな興味・関心のある情報ばかりを入手していると、どんどんと自分の世界を狭くしていき、社会性を損ねていきます。「情報のメタボ化」「情報の偏食」が起こりやすいわけです。

それに対して新聞は自分の興味・関心の範囲外の記事も数多く掲載されています(むしろ大部分の人にとっては、自分の興味・関心以外の記事の方が多いといえるでしょう)。また「見出しの大きさや幅」「記事の文字量や序列、配列」などによって「社会的なニュース価値」を察知することも可能です。さらに「まわしよみ新聞」では参加者(他者)の興味・関心のある記事が提示されるわけで「(同じ新聞を読んでいたのに)そんな記事があったのか?」と気付かされると、まさしく自分の世界観が揺さぶられ、見識が広がっていきます。

②他者を理解するコミュニケーション・ツール
多種多様な記事が掲載されている新聞の中から、どんな記事を切り取るか?ということで、その人となり、キャラクター、パーソナリティがわかります。初めて会った人同士でも「まわしよみ新聞」に参加すると、お互いの共通の関心・興味などが発見でき、一気に親しくなります。会社・組織の新人研修や学校教育、コミュニティ・センターの集会などのコミュニケーション・ツールとしても使えます。

③新聞記事(話のタネ、対話の土台)があることで、自然と話が弾んでいく
みんなでテーブルに集まって「さて、なにか話をしよう。〇〇さん、なにか面白い話題を提供して」と突然いわれても、なかなか面白い話題なんてのは切り出せないものですが、まわしよみ新聞の場合は、まず新聞記事の中から自分の興味・関心のある記事を切り取り、その記事をキッカケに対話を始めるので、とても話しやすい状況になります。「いきなり対話を」といわれてもまごつきますが、新聞記事が「話のタネ」「対話の土台」になってくれるわけです。普段は決して自分からは話を切り出さない、というような話下手な人なのに、まわしよみ新聞をやってみたら、驚くほど雄弁に話をしだした・・・というようなことも数多く体験しています。

④プレゼン力を養う(カードゲーム的面白さ)
自分が切り取った記事の面白さを他者に伝えようとするさいに、ただ新聞を読み上げるだけでは、なかなか興味・関心を示してくれないときがあります。そこには記事の魅力を、実感をもって伝えるプレゼンテーションが必要になってきます。記事を提示するまえに「これは正直、ビックリしました」なんていって期待を煽ってから記事を提示するとか、「これはいまいちですが・・・」とブラフをかましながらとっておきの記事ネタを提示するといったテクニックもあります。記事の内容ではなく「ビジュアル、写真が面白い」「(自分の)ひとこと、解釈がユニーク」といった場合もあります。それぞれの記事に応じた提示の仕方があって、参加者は参加するに連れて自然とプレゼンテーション能力をつけていきます。

また「いかに小さい記事で、みんなの興味関心を惹き、驚かせるか?」というのが、まわしよみ新聞の醍醐味でもあり、これは一種の「カードゲーム的面白さ」があるともいえるでしょう。

⑤「無目的」「ノーテーマ」で開かれ、平等に発言機会が与えられる対話の場
ある「テーマ」や「目的」を掲げて開かれた対話の場では「一方的に話をする人」と「一方的に聞いている人」といった構図がどうしても生まれてきます。例えば「日本の農業問題について考えよう」といったワールドカフェやワークショップが開かれると、結局、そのテーマに関して豊富な知識や情報量をもっている人が場を制します。知識や情報量に乏しい方は「まちがったことをいったら恥ずかしい」ということで、自分のちょっとした考えや思いつきを語ることすらやめてしまいます。その結果、対話の場が開かれていても「結局、あの人は1時間ほど〇〇さんの話にうなづいているだけで、一言も話をしなかったな・・・」というような人も出てくる。一方的にしゃべりすぎないように、時にはファシリテーターが必死に色んな方に話題をふったり、コメントを引き出そうとしますが、それもまた大変で、技術のいることです。

その点、まわしよみ新聞は「ノーテーマ」「無目的」に開かれる対話の場です。みんなが集まってきて、どんな記事を切り取るのか?どんな話題が出てくるのか?は誰にも想定できませんし、みんなで記事を3枚切ったとすれば、平等に3回は対話のテーマを話すことができます。主体的に場のイニシアチブを握って対話を繰り広げることができます。要するに、切り取った新聞記事は「発言権カード」で、発言機会がみんな同じ数だけ平等に与えられているので、自分も場に参加できたという満足度が非常に高くなります。

⑥レイアウトやデザインのスキルを磨く
まわしよみ新聞は「新聞を読む」というスキルを養い、「対話を楽しむ」ものでもありますが、最後に「新聞を作る」という創作の場でもあります。テーブルの上に出てきた十数枚の新聞記事を、改めて再編集して、壁新聞にする。どういう紙面作りがいいか?みんなで話しあって決めていきますが、これはレイアウトやデザインスキルを磨くことにも繋がっていきます。

⑦メディア・リテラシーを育てる
まわしよみ新聞はいろんな新聞を持ち込んで実施します。讀賣新聞、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、産経新聞といった五大新聞はもちろんのこと、地方新聞やスポーツ新聞、業界新聞など、どんな新聞を持ち込んでもいいとしています。その結果、同じ事件やニュースなどでも、各新聞では記事内容や表現が(微妙に、時には全く)異なることに気づくこともあります。新聞社の報道姿勢のようなものが自然とわかってくる。ただ漫然と受け取るのではなくて、主体的に、批判的に情報を読み解いていく力(メディア・リテラシー)が育成されます。

⑧新聞購入者が増える(「社会の公器」としての新聞応援企画)
ネットニュースの情報ソースの元は、現状は「新聞記事」であることが大半です。日本のメディア状況として、市民メディア記者やフリージャーナリストは記者クラブなどには入れず、行政、企業、その他の記者会見の場にすら、なかなか参加することはできません。結果としてネット上で取り上げられるニュース記事の取材者は大手の新聞記者であることが多いわけです。ところがネットで無料でニュースを読まれると新聞社には資金が回りません。新聞社の経営が弱体化すると必然的に情報収集能力に支障を及ぼし、記者の質が低下して巡り巡ってネットニュースも劣化していきます。

「ボルチモア・サン紙」の元記者デイビッド・サイモン(David Simon)氏はアメリカ国会で「ネット情報は既存メディアの情報をコピー&ペーストして、それに対し独自の意見を付け加えたものでしかなく、ネットブロガーや市民記者は寄生虫のようなもの」と指摘しています(海形マサシ氏:JANJAN「ネットメディアはどうやったら生き残れるか」より)。これはかなり偏った意見ですが「社会の公器」としての健全なジャーナリズム、取材力を確保するためには「新聞を購読して新聞社に資金を回す」という行為が本来、必要なわけです。

その点、「まわしよみ新聞」は「参加者ひとりで一紙は新聞を購入して持ち込んでください」とやっているので結果として新聞の購読率向上にも繋がります。ニュース記事をツイッターでつぶやいて無料で流布するという行為とは異なるわけで、新聞(ジャーナリズム)応援企画という側面もあります。

ちなみに、総務省が2014年4月に発表した「情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」によると、10代の若者の新聞行為者率は3.6パーセント、20代で9.2パーセント。驚くほど「若者の新聞離れ」は進んでいますが、「まわしよみ新聞が日本全国各地に広がり、とくに大学などでもやられるようになったおかげで、「はじめて新聞を買いました」という若者も少なくありません。

⑨アナログ的手法で、誰でも参加しやすい。「参加者の多様性」を担保できる
メディア業界では「市民メディア」「市民ジャーナリズム」の必要性が叫ばれて久しく、その実現としてデジタルツール、デジタルサービス(ブログやネットラジオ、動画投稿サイト)が隆盛を誇っていますが、しかし、そうしたサイトを覗き込むと、あまりにも膨大な数の情報ソースに頭がクラクラしてきます。この巨大なデジタル情報量の嵐の中では、自分の意見や情報発信などは、ほぼ100%、黙殺されてしまう。

そうした中でも浮かび上がるような「良質な記事」を書けるような記者やブロガーを作ろう!プロの先生に講座をしてもらって勉強しよう!といった動きもありますが、これは正直なところ、かなり難しいでしょう。文字で情報を伝えるということは、かなりの技術やテクニック、修練が必要で、一朝一夕での習得は不可なものです。「語り」や「動画」でもまったく同じことがいえます。出来ないとはいいませんが非常に困難です。「ニコニコ動画」で人気の動画には「プロの犯行」というタグがつきますが、実際に、字義通り、じつは「プロの犯行」であったりします。

デジタルツールやデジタルサービスを上手に利用できて、さらに「良い記事」「おもしろい語り」「秀逸な動画」が作れる人はいいのですが、大部分、大多数の市民はそうではない。しかし、そういう高いハードルを飛び越えられない人でも、情報発信する機会があっていいし、むしろ、そういった「情報発信に不慣れな人たちの声をどういう風に拾い上げていくか?」が現状の市民メディア、市民ジャーナリズムの課題です。

それに対して「まわしよみ新聞」の参加者は記事は書きません。規正の記事、プロが書いた記事を選択するだけ。自分で「良い」「おもしろい」「良質だ」と思った記事をハサミで切り取って、みんなの前で提示して、それを読み上げて、切った理由を説明するだけ。さらに、みんなが提示した記事についてディスカッションして「これがいちばんよかった!おもろかった!」という記事をトップ記事として台紙の一面に張っていくだけです。そうやって「まわしよみ新聞」は出来上がりますが、これは新聞というパブリック・ニュースをモチーフにして、市民が「みんなの新聞」として再編集して発行するメディアです。その場で繰り広げられた対話などは、場の参加者のみにしか伝わりませんが、非常に発信力や伝播力は弱いかも知れませんが、しかし、誰にでも簡単に出来る「市民メディアの情報発信手段」ではあります。

要するに徹底して「アナログ」なわけです。みんなを集めて場を作って、新聞を集めて切り抜いて、みんなで記事の重要度、関心度の序列を決めて、それをスクラップ新聞にするだけですから。しかし「デジタルな市民メディア」が多いなか、こういう「アナログな市民メディア」は非常に有用であると考えるし、社会全体が「多様な市民メディアの方法論」を持つことが、市民メディア全体の底上げに繋がり、市民社会の成熟に必要なことだろうと考えています。

また、アナログで誰でも参加しやすいことによって「参加者の多様性」も担保されます。年長者の方にはデジタル・メディアは敷居が高いものですが、まわしよみ新聞なら参加しやすい。事実、まわしよみ新聞では過去、6歳の女の子から82歳のおばあちゃんまで参加してくれています。世代を超えて楽しむことができます。

⑩「顔が見えない記事」から「顔が見える記事」へ
欧米の新聞記事と違い、日本の新聞記事の大部分は匿名記事です。この匿名記事というのは、誰が誰に発信して、なにを伝えようとしていて、そうすることでなにが起こりえるのか?といった因果関係がなかなか見えない情報発信で、よくよく考えると非常に不安なものです。匿名であることで、顔が見えないことで、大衆的で、世論的に見えますが、その実体はじつはよくわからない。例えば「内閣支持率は20パーセントです」と書かれた匿名記事を読んだときに、その言葉の意味するものの曖昧模糊さ、胡乱さったらありません。その記事を読んだぼくらは、では一体、なにを、どうすればいいのか?さっぱりわからないわけです。

それに対して「まわしよみ新聞」は参加者の誰もが実名で、「顔が見える関係性」の中で、メディアを再構築しようという試みです。「この記事が好きだ」「これは嫌い」「意外と面白い」と参加者から聞くことで「顔が見えない記事」でも「顔が見える記事」になります。つまり参加者のAさんから「内閣支持率20パーセントらしいです。ぼくはこの内閣を応援してますが・・・」といわれながら記事を提示されると、じつに、すんなりと、その記事を消化できます。「顔が見えない記事」が、その記事を切り取って提示する参加者の「顔」「感情」「雰囲気」「ニュアンス」といった「身体性」を通じることで、俄然、リアルな、生の情報となって届くわけです。

ちなみに、ぼくはまわしよみ新聞の参加者のことを「新聞記者」ならぬ「新聞斬者」と呼んでいます。新聞を斬って血肉を通わせるわけです。そうすることで、ようやく情報が相手の心に届きます。

⑪「ぼくらの新聞」を作ることで「共有場=コモンズ」が産まれる
新聞の発祥は諸説ありますが、17世紀イギリスの「コーヒーハウス」から誕生したという説が有力です。コーヒーを飲みに集まる男性たちが夜通し、侃侃諤諤の政治談議をつづけ、「それは面白い!書き留めておこう。みんなに教えよう」という行為が、いつしか「新聞」という情報メディアへと結実したとか。つまりコーヒー・ハウスという「他者が集う共有場=コモンズ」から新聞メディアが誕生したわけです。

まわしよみ新聞をやってみて面白かったのは、じつはまわしよみ新聞では、その逆のことが起こっているということ。参加者(他者)がいろんな新聞を持ち込んで、自分の興味本位の記事を切り抜いて、それを掲示して話し合うことを繰り返すと、いつのまにか「共有場=コモンズ」が創出されるということ。「共有場(コーヒーハウス)」が「新聞」を産みだしましたが、「まわしよみ新聞」によって「共有場(編集局)」が産みだされはじめたわけです。

いまや日本全国各地に、誰でも参加可能な「まわしよみ新聞編集局」が100カ所ほどできていて、定期的に「まわしよみ新聞」を発行しているところも少なくありません。この中から、なにかまた新しいメディア遊びが生まれくるのではないか?という予感もあります。

⑫「新読」(目のメディア)ではなく「新聞」(視読聴のメディア)にする
新聞は「新読」ではありません。「新読」・・・つまり新聞記事を、ただ単に「自分ひとりで読む(黙読する)だけ」であれば、それは実は「新読」に過ぎないというわけです。本来、新聞というものは、やはり「新聞」と書かれているように、その記事は「他者の声」を介在して「聞く」ものです。実際にロンドンのコーヒーハウスの侃々諤々の論議=「他者の声」の中から新聞が誕生したわけですから。そうすることで、ようやく、新聞はほんとうの「新聞」たりえる。新聞を「新読」ではなくて、ちゃんと「新聞」にすること。新聞に「他者の声」を介在させる。新聞を「目のメディア」(1つの感覚器で消化する)だけではなくて、「視読聴のメディア」(3つの感覚器で消化する)にすること。見て、声に出して読み、聞くこと。まわしよみ新聞は、それを実践していますが、そうするだけでも、ぐっと新聞は面白くなります。

⑬「新聞+他者との会話」というメディアミックス
情報メディアにはそれぞれ特性があります。例えばラジオは「地域性」や「世代性」が非常に強い聴覚メディアで、ユーザビリティに優れています。地震や災害で家を失ったりしてもラジオは簡易な装置で受信可能で持ち運びなどもしやすいので、阪神淡路大震災や東日本大震災のさいには非常に重宝されました。但し「地域性」や「世代性」に特化してるがゆえに視聴者数は少なく、マスメディアとパーソナルメディアのあいだに位置する「ミドルメディア」という言い方もされていますが、実際にテレビやネット、新聞といったマスメディアほどの影響力はありません。

テレビは聴覚のみならず視覚にも訴えかけることが可能な「視聴覚メディア」で、非常に「情報伝達性」のあるメディアです。視聴者数も非常に多く、まさに「マスメディアの王」でテレビで報道されたとなると、世間に対する反響力も非常に大きいものがあります。しかし情報伝達性が強すぎるがゆえに扇情的なメディアでもあり、理性的判断を鈍らせる怖さ、危険性もあります。また情報の送受信に非常にコストがかかり、情報発信をするには非常に敷居が高いメディアで、一部の人々のみにそれが可能な「特権メディア」(国家の介入もあります)の側面もあります。

ネットは、ある種のスキルは必要ですが、ホームページやブログ、ツイッター、SNSを始めることができれば、簡単に誰でも情報発信が可能という「パーソナルメディア」です。しかし、だれでも情報発信可能であるので「誤報」「デマ」「詐欺」「風評被害」「炎上」といったことも発生しやすいメディアです。

新聞は「社会性」「総覧性」を有しているメディアです。「新聞朝刊の文字数は20万文字を越える」といわれたりもしますが、政治面、経済面、国際面、社会面、事件・事故、時事ネタ、コラム・書評、読者の投稿欄、広告、天気予報にテレビ欄、ラジオ欄と扱う情報分野は多岐にわたります。但し、あまりに「社会性」「総覧性」があるだけに、自分の興味・関心がある記事は少ないといった弱点があり「新聞を取ってるけど結局、読むのはテレビ欄だけ」といったような人も少なくありません。いまの時代はインターネット偏重で、どんどんと「一億総情報偏食化」が進んでいるので、新聞の購読者数は大幅に減少してきています。

ただ、ぼくが一番、新聞の特性としてあげておきたいのが、新聞は「紙のメディア」であるということ。つまり回し読みや持ち運び、切り貼りができるという「回読性」「可搬性」「可変性」に優れているメディアであることです。そして、この特徴があるからでこそ「まわしよみ新聞」といったプロジェクトも可能となりました。

最後に付け加えると、人間には「他者との対話」という情報メディアがあります。もっとも人間の感覚に訴え、刺激的で、意外性に満ち、カオスモス(混沌と秩序)で、自分の世界を広げる可能性に満ちているのが、この「他者との対話」です。

「まわしよみ新聞」は「新聞+他者との会話」というメディア・ミックスで、だからでこそ、面白いといえます。

⑭メディアの遊技者(トリックスター)を作る
世の中にはいろんなメディアがありますが、メディアに対して「受信」というスタンスにとどまっている人が多いことが、メディアというものを貧しくしています。要するに「肯定」(鵜呑みにする)か?「否定」(疑って切り捨てる)か?しかないわけです。「新聞っておもしろいでしょう?だからみんなで読みましょう」ということだけで「まわしよみ新聞」をやっているわけではなく、「各種の新聞を比較検証して新聞というものを疑ってみよう」ということで「まわしよみ新聞」をやっているわけではありません。ぼくは新聞というメディアを用いることで「こんなにも遊べる」ということがいいたかった。メディアの「発信者(売り手)」「受信者(買い手)」だけではなくて、そのあいだで遊ぶ「編集マン」や「演出家」や「調理人」や「ブリコラージュするひと」・・・要するに「遊戯者」(トリックスター)を作ろうとした。そうした発想の第一歩、入口として「まわしよみ新聞」の存在価値があります。

大阪で活動していて、ぼくの尊敬する現代アーティストに「新聞女さん」がいます。彼女は新聞を裁断してドレスにして、みんなで新聞ドレスを着て、まちを練り歩く・・・といったアート・パフォーマンスで世界的に有名です。つまり、「新聞を着る」という「遊戯者」なわけです。こういう「メディア遊び」がもっと世の中に広まればいいなぁと思っていますし、それが本当の意味での「豊潤なメディア情報文明」を作るだろうと確信しています。

⑮「脱・目的論的」であり「セレンディピティ」(偶察性)を楽しむ
何度か色んなところで「まわしよみ新聞」をやっていて、たまに企画趣旨をカンチガイして参加するひとがいて、それはどういうカンチガイか?というと「すでに自分の興味・関心のある新聞記事を前もって切り取って参加する」という人です。自分の中ですでに「語りたいこと」というものが予めにあって、それを語りたいがために、それに関連する新聞記事を用意して参加する・・・。

勿論、こうした「目的論的」なスタンスで、まわしよみ新聞に参加しても当然いいわけですが、しかし、本当にぼくが「まわしよみ新聞」でやりたいと思っていることは「脱・目的論的なメディア」です。だから「その日に発行された新聞」を用意しておいて、そこで一斉にみんなでまわしよんでみましょう!とやっているわけです。

前もって記事(テーマ、主題)を準備や用意するのではなく、そうした「目的論的な集まり」ではなく、ただ漫然と、なんとなく、その場にみんなで集まって、なにかやってみよう。そうすると、どういう記事があるかよくわからないことで、「偶然の(記事、ニュース、世界の出来事)情報メディアとの出会い」というものが発生する。

要するに自分の興味・関心のある記事(自分の中で内面化=固定化されたもの)ではなく、その「隣の記事」「隣の隣の記事」「裏面の記事」にこそ、自分の世界を超えた世界が広がっていて、そこにも意味や価値や楽しみや謎やドキドキやワクワクがある・・・ということを知ることができるわけです。自分はTPPに興味・関心がある。しかしTPPの記事の隣をなにげなく読んでみたら、そこの記事の方が妙に面白かった。そういう「ずらし」「はずし」「横滑り」が起こることが自分の世界を拡充するために大切なことだといいたいわけです。いまの世の中はあまりにも「目的論的な生き方」を強制されていますが、それは自分の世界を限定します。

少し話がずれますが、ぼくは「観光家」を名乗ってますが、観光ガイドブックなどはキライな人間です。そんなガイドブックなど読まずに、ある日、急にふらふらと電車に乗り、聞いたことのない駅で降り、まったく誰も知らない商店街を歩き、ふと出会ったおっちゃんと話をして、なんとなく話のついでに家に泊めてもらう・・・といった観光こそが観光の醍醐味だと信じています。次になにが起こるかわからない。つまり、「最高の旅」とは「無目的に逍遙する旅」です。最高の人生もまた同じく。「脱・目的論的な人生」を。予定調和ほど貧しい人生はありません。幸福な偶然性。つまり「セレンディピティ」(偶察力)を楽しもうというのが、まわしよみ新聞です。

⑯個人芸と全体芸で構成され、「世界を作る手仕事感覚」がある
「まわしよみ新聞」の制作には3つのプロセスがあります。「①新聞をまわしよんで記事を切りぬく」「②切り抜いた記事をプレゼンしてみんなで話し合う」「③記事を四つ切画用紙に張り付けて壁新聞を作る」・・・このどれもが欠けると「まわしよみ新聞」にならないわけで、とくに一番重要なのが、じつは「③」です。

例えば新聞をまわしよんで、おもしろいと思う記事を赤丸つけて、それを話し合って終了・・・としてもいいんですが、ぼくはあえて新聞記事を切り取って、みんなで1枚の壁新聞として再編集しなおすという「エトス」(型)にしました。これは、おもしろい記事、興味深い記事を切り取ることよりも、それを上手にプレゼンしたり、話し合うことよりも、みんなで1枚の壁新聞をクリエイト(創造)することにこそ、「トポス」(場)の面白さが最大限に発揮されると考えたからです。①と②はいってみれば「個人芸」の範疇なんですが、③は「全体芸」になるというわけです。

切り抜いた記事をどういう風に並べようか?貼っていこうか?この記事とこの記事を並べたら別の意味がでて面白いのでは?どう色づけしていこうか?タイトルや日付はだれが書こうか?スキマや空白をどうしようか?イラストでも描いてみようか?・・・要するに調整や構成や交渉や編集する能力が問われてくるわけです。①と②をうまいことやれても③はダメという人が世の中にはいるし、逆に①と②はダメでも③となると俄然、力を発揮するという人もいます。

こうして、「まわしよみ新聞」を作ることで、ひとつの「小さな社会」「小さな世界」を創造することになり、「社会性」「世界性」を習練するステップにもなるわけです。また非常に重要なのがハサミやノリで新聞の記事を切り取ったり、貼ったりという作業は「手仕事」で、この「手仕事感覚」こそが脳化してしまった情報社会に、もっともロストされている感覚だったりします。子供が無意味にハサミでヒモを切ったりするように、無意味にあちらこちらの壁にシールを貼るように、「ハサミで新聞を切る」とか「ノリで記事を貼る」とかいう作業は純粋に楽しいものです。こういう「触覚的喜び」をみんなで共有できる体験って、大人になると、まったくないですから。そういう意味でも③のプロセスは非常に重要です。

ちなみに、このプロセスはなにかに似ているなぁ?と前々から思っていたんですが、じつはこれは河合隼雄先生の「箱庭療法」に似ているかも?ということに気づきました。「四つ切画用紙」はいってみれば「箱庭」です。まわしよみ新聞はそこに「新聞記事」というメディアを置いていきますし、箱庭療法ではそこに「おもちゃ」というメディアを置いていく。新聞記事は「2次元」で、おもちゃは「3次元」という違いはありますが、メディアを置いて「小さな社会」「小さな世界」を創造するという意味では、やってることは一緒です。いろいろと調べてみると、箱庭療法の発案者マーガレット・ローエンフェルド(Margaret Lowenfeld)は、箱庭療法のことを「世界技法」(The World Technique)と呼んでいたとか。まさに「世界を作る」という「手作業」。

なぜ「まわしよみ新聞」がうけるのか?・・・それは小さいけれども「世界を作る手仕事感覚」があるからです。やってみればわかりますが、これは非常に魅力的な体験です。自分がなにをやっているのかわからないほどに細分化された産業社会の住人であるぼくらには、これほど魅力的な体験はありません。

⑰「NIE」(Newspaper in Education=教育に新聞を)ではなくて「PIN」(Play in Newspaper=新聞を遊ぼう)を
「NIE」(Newspaper in Education=教育に新聞を)という運動があります。1930年代にアメリカで始まったそうで、メディア・リテラシーを育てる効果があるとされていますが、1930年代から長年やってるわりに、アメリカのマス・メディアの偏向報道の酷さをみていると、それほど、効果があるようには思えないなぁ・・・というものです(ちょっと皮肉。笑) 日本で本格導入されたのは1989年だそうですが、Wikipediaを見ると以下のような「問題点」が列記されています。

①新聞社は私企業であり、結局のところは、近年の新聞の売り上げの落ち込みのテコ入れ策でしかない。また、そういった新聞の売り込みそのものを教育の現場に持ち込む事に対する批判。
②新聞界において、昔から延々と発生し続ける記事の捏造や冤罪報道といった報道被害の情報は伏せられてしまい、意味がない可能性がある。
③既存の権力構造である新聞社が協力するため、そこから抜け出した考えをもち、偏向報道を見抜く事は困難であるかもしれない。
④新聞紙面の文章の言い回しは、一般社会ではありえないか、あるいは非常に抽象的かつ曖昧な表現が多い。そのうえ最近の新聞は、固有名詞を除けば、文字の表記を常用漢字に限定したり、必要以上に開いた表記(話す→はなす)を採用しており、文章の読解力向上に特に効果があるとは言い難い。
⑤教師が意識して、特定の新聞のみ教材として用意するなどで、恣意的な教育が行われる可能性がある。
⑥そもそも、日本の新聞は諸外国のそれと比較して、出版部数や価格の割に、内容が非常に薄い(欧米の日刊紙の半分程度しかない)

・・・なかなか手厳しいのですが「まわしよみ新聞」をやっていると、NIE関係者の方とも出逢うことが多く、時々、「NIEは盛り上がらないのに、なんでまわしよみ新聞はこんなに盛り上がっているのですか?」と聞かれることがあります。それで「上記のような問題点をまわしよみ新聞が解決するとは思えませんが、ただまわしよみ新聞というのは決してNIE的なベクトルを志向したものではありません」とは答えています。

要するに「まわしよみ新聞」とは「教育のため」とか大袈裟なものではなくて、単なる「遊び」でしかありません。新聞記事を使ったカードゲームか大喜利大会か与太話の類であって「NIE」をもじれば「PIN」(Play in Newspaper=新聞を遊ぼう)というものです。だから面白いし、誰でも夢中になってやってくれる。

話が少しずれますが、世の中に「まくら投げ」ってのがあります。誰が始めたのか知りませんが、発案したひとはまさしく天才でしょう。寝具のはずの「まくら」を投げて、なんと遊びの道具にしてしまった。おそらく、昔のまくらは固かったんでしょうが、時代が経るにつれて進化して、柔らかくて、肌さわりもよくて、心地いいものになっていった。そうなったときに、誰かがこれはぶつけても痛くない=ぶつけるゲーム=「まくら投げ」やろうぜ!となった。遊びの発想を導入することで、まくらに「まくら投げ」という可能性が生まれ、世界が広がった。いまや「まくら投げ大会」なんてのもあるそうですから。ここまでくると完全に一種の「文化」です(笑) 

「まわしよみ新聞」をやっていて、結果として、教育的な効果やメディア・リテラシーの醸成にも繋がるのかもしれませんが、そこは二次的三次的なものだとぼくは思ってます。ぼく個人の想いとしては、もっと新聞で遊ぶってことが世の中には必要だし、それをやりたい。ぼくは新聞を、メディアを遊びたい。そうすることで新しい可能性や世界が開けてきますから。

⑱マスメディアとソーシャルメディアのあいだを担う「まわしよみ新聞」
震災でテレビや新聞といったマスメディアへの信頼や信用が大きく損なわれました。誰が誰に向かって、一体何の目的で、何を伝えようとしているのか?そういう背景が全くわからない。新聞もどう読めば腑に落ちるのか?自分ではわからないから、みんなで「回し読む」という「集合知」で読み解けるのでは・・・?と思って、そこから「まわしよみ新聞」の発想が誕生してきました。そういう意味でいえば「まわしよみ新聞」は明らかに震災以後に生まれた新しい市民メディアの動きです。「311」がなければ、ぼくは決して「まわしよみ新聞」をやっていません。

ただ、注意してほしいのは、マスメディアは信用できない!といって、マスメディアに「怒り」や「憎しみ」や「疑問」をぶつけて思考停止して、わかりやすいアンチの立場をとるのではなく、そういったマスメディアと市民の乖離状況をうまいこと「転用」することで、面白おかしいものに陽転させることで、メディアと市民を新しく結びつけることができるかも?と思ったわけです。

新聞(昔は『市民ケーン』のような「偉大なる新聞社!偉大なる新聞記者!」ってのがいたわけですが)が大衆を啓蒙するような「大新聞時代」はとっくの昔に終わったし、双方向的でソーシャルなインターネットメディアが情報化社会の主流になっていくのもわかります。しかし、だからといってここまで成長してきた新聞メディアの文化やコンテンツを、一朝一夕で捨て去るにはあまりに拙速で早計すぎる。もったいなさすぎる。やがて新聞は滅びゆくメディアなのかも知れない。しかし、それを緩やかにソフト・ランディングさせる方法論やアクションが、今後もっと必要になってくるだろうと思います。

これはなにも新聞やマスメディアだけに限ったことではなく、資本主義経済や、原子力発電所や、近代国民国家や、議会制民主主義や、あらゆるものに同じことがいえます。今までぼくらの社会がお世話になってきたものと、世の中のベクトルや方向性、動きはどんどんと乖離していく。だからといって、それらを一斉にクリックしてゴミ箱にポイっと捨てるのではなく、なるべく何かに使えるのでは?と延命させ、転用して、陽転させて、ゆるやかに旧来型の社会全体を新しい社会の動きに慣れさせて、徐々に変化させていく・・・というのが人類の優しい智慧というものでしょう。

長い眼で見れば、おそらく今の時代はマスメディアが滅びゆき、ソーシャルメディアが勃興する、その過渡期であると思われます。まわしよみ新聞はそのあいだを担うものと認識しています。

⑲みんなで作った「まわしよみ新聞」を掲示することで「活動の宣伝広報ツール」になる
「まわしよみ新聞」は「公的(世論的、匿名的、大衆的)な新聞」を再編集して「共的(世間的、顔が見える的、みんな的)な新聞」を作ります。さらに「作った新聞をみんなにまわし読んでもらこと」で「まわしよみ新聞」として完成です。「まわしよみ新聞ができた!」で終わりではなくて、みんなで作った「まわしよみ新聞」を、さらにその場にいなかった誰か?(まだ出会っていない読者)にまわしよみしてもらうために作る。だから「いかにもまわしよみしてもらえるような楽しい、面白い、紙面作り」が重要な作業になってきます。タイトルに凝ったり、記事イメージを伝えるイラストを描いたり、記事へのツッコミなどを寄せ書きしたりするのも「誰かに読んでもらいたいから」です。

要するに「まわしよみ新聞」を作ったら、出来ればそれを作った場所(カフェ、大学、コミュニティスペース、住み開き拠点など)で掲示してほしいわけです。不特定多数の人が訪れる場所であれば、そこを偶然、通りかかった人が「まわしよみ新聞」を目にして「なんだこれ?まわしよみ新聞?へー。おもしろそう」と興味を持ってくれる。「次は何日にやります」と伝えれば、「では一度、参加してみようか?」となるかも知れない。実際、ぼくが「釜ヶ崎の伝説の喫茶店っぽいなにかEARTH」で「100日まわしよみ新聞」を実施したときは、そうやって色んな人たちが「まわしよみ新聞」の活動を偶然知って、徐々に参加してくれるようになりましたから。

「まわしよみ新聞」は作る過程も面白いですが、作ったあとは、それが「活動の宣伝広報のツールにもなる」というのが素晴らしいわけです。「作ったら終わり!」では「新聞を作成したが、どこにも配達しない」ようなもんです。そうではなくて、みんなで作った「まわしよみ新聞」を、ぜひとも色んな人に見てもらいたい。読者を意識する。そっちの方が「作り甲斐がある」というものです。「新聞作り」と「仲間作り」。その「仲間作り」のためにも、ぜひとも「まわしよみ新聞」の掲示を。

⑳「他者」にアプローチする「いつでも、どこでも、だれでもできる」というコモンズ・デザイン
実体経済を遥かに凌駕する肥大化した投機経済活動は、あらゆる人間のコミュニティを破壊していきます。血縁、地縁、社縁はもちろんのこと、都市や国家といった枠組みすらも超えていきます(事実、企業家や資本家は減税都市や無税国家に本拠を移転していってます)。そういったコミュニティ・ロストをなんとか修復、維持しようと努めるコミュニティ・デザインなどの動きもありますが、残念ながら現実社会のスピードになかなか追いつけず、事態は悪化する一方です。いま必要なことはコミュニティという枠組みに汲汲とするのではなく、そこを乗り越えて「人間活動」(経済活動ではなく)の必要性を訴える運動で、つまり「コミュニティ+他者」といった両者を包括するアプローチが求められています。

「まわしよみ新聞」はコミュニティの慣れあいではなくて「他者」を発見する作業で、「共有場(コモンズ)」でこそ、その本質性を発揮します。新聞と四つ切画用紙とハサミとノリとペンを片手にコミュニティを飛び出していく。コミュニティ再生ではなく、コモンズ新生のプロジェクトであること。それが「まわしよみ新聞」の新しさです。

事実、まわしよみ新聞はわずか1年半で日本全国100カ所以上で編集局が作られました。最近は、ついには海を超えて韓国・釜山でも実施されています。オープンソースであることで、コミュニティ(都市、国家)などを軽々と飛び越えていきます。

㉑大阪発の市民メディア
現存する日本最古の「かわらばん」は「大坂夏の陣」。宮武外骨の伝説の「滑稽新聞」も大阪で誕生し、日本の四大新聞のうち朝日も産経も毎日も元は大阪発祥です。つまり新聞は大阪に非常にゆかりの深い情報メディアということです。「まわしよみ新聞」は、そんな400年に渡る「大阪新聞文化」の最先端を担っています。

■「もっと詳しくまわしよみ新聞について知りたい!」という方には公式ガイドブックがあります!
それが『まわしよみ新聞のすゝめ』(陸奥賢著/まわしよみ新聞実行委員会編)です。こちらの公式通販サイト(http://susume.base.ec/)で購入できます。1冊1500円(消費税別途)ですが、何冊ご購入頂いても送料無料です。よろしければごお買い求めくださいm(_ _)m
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