「まわしよみ新聞」に参加しても「答え」はみつかりません。むしろ「問い」を投げかけたい。「ノイズ」を投げかけたい。そういう場にしたいなぁ、と常々思ってます。

うまいこと、おもろいこと、新聞のニュース記事を「読み解く」というひとが世の中にはいまして。知識とか物知りとか、そういうことではなくて、物事を照射する「角度」とか、微妙な「ずらし方」とか、「含み」の提示のようなものです。え?話の着地点がそこになりますか?という意外性の話術。これはどれだけ学校や大学で勉強しても、いくら本を読んでも決して身につかない、一種の「センス」のようなもので、絶妙に物事に「雑音」「ノイズ」を持ち込むひとといってもいいかも知れません。「まわしよみ新聞」をやっていると、時折、そういうセンスやノイズのあるひとに出会って感心しますし、これがまた楽しいんですな。

それで仏教説話のスタイルに「絵解き」というのがありますが、これも、そういう「ノイズ」や「センス」の話芸だったのでは?と思ってます。まっすぐに、目的論的に「答え」を出すのではなくて、その絵解きによって、じつは90度、180度、270度、360度、話の意味内容が変わっていいし、それを許容するような精神が仏教の中にあります。というのも仏教は「何事にも執着してはならない。何者にも捉われてはならない」(釈迦の教えですらも!仏に逢うたら仏を殺せ!)という常に存在性を揺さぶる宗教ですから。正しいとか、過ちであるとか、正解とか、間違っているとか、そういうことではなくて、ちょっとした「ノイズ」を与えて、「チューニング」させることで、「自分」というものを取り戻せさせる。仏教の叡智というのはそういうところにあるし、仏教者としての絵解きの達人・名人というのは、そういうノイズを有したひとであろうと思います。簡単にいえば、絵解きで与えられるのは「答え」ではなくて「問い」である、ということです。

今の世の中にあふれているのは、簡単に「答え」を提示する情報メディアばかりです。「こうすると〇〇(美人になれるでも大学に入れるでも金持ちになれるでも結婚できるでも何でもええんですが)になれる」といった指南書の多くがそれで、こういうのが大体、本屋の店頭に並んでベストセラーになってますが、ぼくはこういうものには、まったく、これっぽっちも興味ありません。こういうのは仮にその本に書かれている「答え=こう〇〇すると金持ちになれます」がやってみて「正しい」としても、いってみれば「ゲーム攻略本を読んでゲームをクリアする」みたいなもんで、なにがおもろいねん?と。「答え」ではなくて「問い」を投げかける情報メディアがあって良いし、この混迷の時代、カオスモスな社会状況にあっては、そんな容易に「答え」なんて見つかるはずもありません。大体「こうすれば大丈夫。答えはここにある!」とかいう人は(アベノミクスでも維新でも三宅洋平でも)瞬間的には刹那的にはよくても明日にはどうなるかわかりません。むしろ今こそ情報メディアは「答え」ではなくて「問い」を投げかけないといけない。混迷の時代であるからでこそ、「安易な答え」を欲しがるのではなくて覚悟して「大いなる問い」を投げかけ、とことんまで混迷してみないと次に進めない。

「まわしよみ新聞」に参加しても「答え」はみつかりません。むしろ「問い」を投げかけたい。「ノイズ」を投げかけたい。そういう場にしたいなぁ、と常々思ってます。

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