まわしよみ新聞は「語」(ひとりの言葉)を「諧」(みんなの言葉)にする場

龍谷大学の講師さんから「まわしよみ新聞を授業に取り入れたいです」とご丁寧なメールを頂く。関西学院大学の白波瀬さんがご紹介してくれたとか。ありがたいことです(白波瀬さん、ありがとうございます!w)。

まわしよみ新聞、オープンソースのメディア遊びで、大学はもちろん公民館、商店街、コミュニティ・センター、看護福祉施設、老人ホーム、小中高、会社、家、どこでも自由に使ってええというもんです。メディア遊びというてるから「所詮、遊びなんやろ?」と思われがちですが、じつはアクティブ・ラーニングには恰好の素材です。

先生・講師がトップダウン式で「これ(テーマ)について新聞を調べてきなさい」というもんやないんですんな。生徒自身が「新聞読んでたら、こんな記事あった。ぼく、こんなん好きですねん」と語る・・・というボトムアップ式なんで、勝手に生徒の「当事者性が発動する」わけです。それを生徒同士でお互いにシェアするので「他者性を知る」(コミュニケーションツールになる)ということにも繋がっていくと。

面白いのがAさんがAという記事を切って話をしたら、BさんがAさん以上にAという記事について熱く語り出したり、それをうけてCさんがさらに思いっきり話を脱線させて・・・と、まるで誰の記事なのかわからないようになるという「乗っ取り現象」が起こるとき。これは「当事者性」と「他者性」が入れ替わって、二重螺旋構造のようになるんですな。この瞬間がまわしよみ新聞の最大のエキサイティングな部分でして。「集団の物語」「共作のドラマ」が立ち上がるというか・・・なかなか言葉しにくいんですが、これはまわしよみ新聞をやったひとにしかわからない衝撃かもしれませんw 

要するに「語り」(言+吾)というのは「一人称(吾)の言葉」に過ぎないわけです。それが「諧」(言+皆)という「みんな(皆)の言葉」になると笑いが起きるし、ユーモアになると。まわしよみ新聞は「語」(ひとりの言葉)を「諧」(みんなの言葉)にする場やと思えば、わかりやすいです。

※なんで「語」が「諧」になりやすいのか?というと新聞記事が「スキマだらけ」であるからです。これについてはまた機会があれば書きます。書かないかも知れませんがw